「地の私」と『天の私』(4)

『ド』=『天の私』のお働きについて。
 それは、統一です。
『ド』は、「ド」の精進を見定めた上で、「ドレミファソラシ」を、ご自身に、つまり実在界に統一してくださいます。
 現在進行形の、精進中の多層的プロセスを最大限活かして。

  統 一とは、多層的バランス化です。
 未統一とは、多層的アンバランス化です。
 未統一だとギクシャクしますので天命を果たせません。
 その結果、人生全体がギクシャクします。
 そこで、ギクシャクを自覚したら、心の中でつぶやきます。
〈皆様、愚かな私で申し訳ありません。
 そして、そんな私をもしっかり支えてくださって、ありがとうございます。〉

『天の私』は、「地の私」の心の中だけでなく、皆様の背後にもおられます。
 皆様へのお詫びと感謝を通して、『天の私』にお詫びし、感謝します。
 自分の心の中だけ見つめていれば、皆様の背後におられる『天の私』が見えなくなります。
 見えなくなると、かけがえのない皆様を通して「形」になる「導きの光」もまた(心の眼に)見えなくなります。
 そのお詫びと感謝によって、(その出来具合によって)『天の私』は、ご自身の光を、「地の私」を通して生きいきと解き放ってくださいます。
 その時、世界には、美しい歌が流れます。

「立場の確立」とは、「地の私」が身の程をわきまえて謙ることによって、(潜在意識も含めた)地上世界の主宰者として『天の私』を顕在意識にお迎えさせていただく行です。
 しかし、そうは書きましても、現実のここ一番という状況では、立場の確立が揺れるのが、いつもの私です。
『ド』を忘れて暴走し、心にノイズを発生させます。
 でも、そんな情けない自分にめげてなどはいられません。
 お詫びと感謝を踏まえて、七転び八起きの精神で立場の確立に挑み続けます。

 でも、「地の私」が、自分の歩みはダメだと思っても、「楽しく貫徹する」姿勢を堅持している限り、そこには、『天の私』がご用意くださったサプライズと共に美しい歌が流れます。
「地の私」の歩みの成果は、実に限られたものです。
 それでも、『天の私』は、その歩みの裏の裏まで鋭く見つめて、その上でサプライズを加えて祝福してくださいます。
 実に申し訳なくも、有り難い限りです。

 ところで「ドレミファソラシ」と『ド』の間には、境界線があり、守護の神霊に帰依しなければ決して越えられません。
 自力では不可能です。

 潜在意識最上位の「シの私」は、「レミファソラシ」の中では、波動域がもっとも精妙です。
「ドレミファソラシ」の階層ではトップですから。
 ちょっと手を伸ばせば「シ」は『ド』に手が届きそうですが、「自力の手」をいくら伸ばしても決して『ド』には届きません。
「届く」と思うのは「シ」の錯覚です。
 この錯覚が、もっとも狡猾な悪知恵となって私の帰依を邪魔します。
「シの私」とは、常に「自分が一番」だと錯覚している、どうしようもないほどアホな私自身です。
 その錯覚を、「ド」に投影してきます。
 その(あまりにも精妙な)邪魔は、私が「帰依を邪魔されている」とは夢にも思わない「私自身の真っ当な思い」の裏側に潜んでいます。
 どうしていいのか、まったく分からなくなります。
 それでも、その困難を持ちこたえて、守護の神霊に帰依し続けるのみです。

『天の私』は、守護の神霊と等しい関係にあります。
 しかし『天の私』は目に見えませんので帰依しにくいですが、守護の神霊は、たとえば『観音様』のようにお名前をお持ちですから帰依しやすいです。

 帰依をお受けとめくださる守護の神霊の最終目的は、「地の私」と『天の私』の一体化です。
「自分」ではない誰かに帰依するのではありません。
 極めて現実的で安全な「自分探し」が、守護の神霊への帰依です。
 その帰依の修行の果てに、「地の私」が、守護の神霊の中に見出すのは、『天の私』、つまり、ほかの誰でもない真の自分自身です。

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