「地の私」と『天の私』(2)

「ドレミファソラシド」の音符で歌を創って歌うと、「ド」も『ド』も、「ひとつの美しいメロディ」の中で一体化しています。
 そして、歌い手も聴き手も、共に楽しませてくれます。

 なんと、「地の私」と『天の私』は、すでに「ひとつ」なのですね!
 歌を歌うことによって、それを楽しめます。

 しかし、「ひとつ」ではあっても、顕在意識が位置するのは、常に、最下位の「ド」です。
 これは、実に深く心安らぐ位置です。
 顕在意識が、身の程知らずの思いに駆られて(思い込みの)天空高く舞い上がらなくていいのですからストレスがたまらない位置です。
「本来」ならば。

 私の場合は、目移りが激しいので、『天の私』を見上げる視線がズレて、よく舞い上がり、しかもすぐにはそのことには気がつきません。
 でも「これはヤバイな」と自覚した時には、舞い上がっている私に向かって「アホやのう」と語りかけます。

 内観には、ユーモアも必要です。
 言うまでもなく、それは、自分の「至らなさ」によって皆様にご迷惑をお掛けしていることを申し訳なく思い、その「至らなさ」を克服する意志を込めたユーモアです。
 とにかく前進する姿勢は、明るくなければ、おもしろくありません。

 自分を裸にして、光の中に出る行が内観ですから、思い込みにまみれた自分を見つめることは(時として、実に鋭い)苦痛が伴います。
 しかし、内観は、その苦痛を感じる自分を丸ごとすべて光で包み込んでいただける行ですから、とことん楽しく、喜びを持って(余裕がある時は)ユーモラスに行います。

 岩根先生の内観は、自明行と呼ばれています。
 とても奥が深く、成就には、様ざまな困難が伴います。
 しかし、とても実践しやすいです。

 困難に直面して、「自分には、できない」と思ったら、「できない自分」の立場を確立することで、そのまま「現状の自分」から一歩ずつ、無理なく、楽しく、必要なプロセスを乗り越えて、究極の救われに向かって歩ませていただけます。

「立場の確立」は、困難を感じることが多い私にとって、極めて現実的で、有り難い、岩根先生の御指導です。

 ところで、アタマで理解していることと「実際にできていること」の間には、大きな開きがあります。
 私には、その開き具合を正確に把握することができません。
 その意味で、私の自明行は、初歩的なレベルなので、自戒を込めて常に「内観」と表記しています。

 多層宇宙を旅する岩根先生の自明行の奥深さ。
 その一端を、私の内観を照らす《光》として仰ぎつつ、「理想的な死後」という視点から書きます。
 その奥深さからは、遙か下方に位置する私の今ここの旅を励ます希望として。

 本来「ひとつ」である「ド」と『ド』。
「理想的な死後」において、「ド」は、肉体を脱ぎ捨てたあとに「レミファソラシ」の自分をもすべて脱ぎ捨てて『ド』と一体化して《ド》となり《 》へ帰還します。

 そして新しい多層的な調和を創造する旅を始めます。

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